第3章 博物館30年の回想

 

1 歴代館長の回顧文

 

回  想

 

垣  本  光  男    

開館準備(昭和34年4月〜12月9日)

 私が鳴門市第一中学校長在職中の昭和34年3月初め,仁科義之県教育長から呼び出しがあり急ぎ県教育庁に赴いた。仁科教育長の話では現在県立博物館を建設中であるが,開設準備室長として協力を頼むとの依頼であった。新博物館の構想としては郷土の歴史考古関係の資料が中心ではあるが,それだけではなく現代科学および産業方面の資料も収集充実を期待している。そこで君に力を借りたいとの話であった。結局教育長の決意を了承し博物館入りを覚悟した。

(1)準備室の人員と建築

 昭和34年4月1日付で,社会教育課主査に補すとの辞令を受領した垣本の他に事務関係では向井田實課長補佐,難波晴二主事,橋本雅美主事,学芸関係では郷土室の飯田実主事,科学室には浜元順吾技師,生物地学室に富永敏衛主事らが発令され博物館開設準備室のメンバーが顔を揃えた。教育庁(木造)の2階の一室が割り当てられた。
 この時までに,各室の展示資料などは各室構想委員の方々に依嘱されて大体の構図は協議されていた。一方,館の建築は昭和33年12月に着工されており,基礎部分の工事は終わり1階部分のコンクリート打ちの最中であった。
 この建物は徳島市営ロープウェー舎屋に隣接し,1・2階は県の物産斡旋所(現・物産観光事務所)として使用予定,博物館には3階・4階・5階が割り当てられることになっていた。

(2)建築費の分担

 県費(物産斡旋所)負担は約1千万円であった。一方博物館側の負担は約5千万円であった。この5千万円は,小中高校生らの勤労作業による浄財を始めとして,各会社・工場・商店・組合等からの協力金,個人有志の寄付金をすベて集大成した額であった。

(3)県外博物館の視察

 教育長の指示により他県の博物館を視察するようにと出張を命ぜられた。山口県立博物館,小泉八雲記念館,鳥取県立科学博物館,倉敷考古館,大原美術館等の施設,予算運営,資料の収集,展示方法を各自分担して見学し,館の運営・展示の工夫・館の行事等の話を承り,参考点多かった。昭和34年5月4日から7日の間,飯田・浜元・富永・垣本の4名がこれに参加した。

(4)フランス客船の美術品

 徳島県牛の島出身のサルベージ界の第一人者岡田勢一氏が,フランスの客船(船齢超過)を購入され,大阪港に回航碇泊中であった。昭和34年5月29日,県教育委員長竹原英太郎氏と垣本の2人が出張し,イル・ド・フランス号(44.356トン)に乗船し,船内を見学し,県商工部長島勝福氏の前もっての指示品を確認した。岡田勢一氏からは,希望の品は解体の折破損なきよう取扱い,博物館装飾品として寄贈する旨申し出があった。一等船客用食堂サロンの壁面の裸婦石膏像・シャンデリアの一部・油絵2点・レターデスクの譲渡方を依頼した。博物館の建築が完工次第徳島への運送を大阪事務所の係員に手配をお願いした。

(5)新館へ移転

 昭和34年9月25日,博物館建設工事完工。教育庁の開設準備室から新館に移転した。新館内の各室の割当て,展示資料の配置,展示ケースヘ資料の収納等具体的処置にとりかかる。館の階段は狭く屈曲しているため運搬不可能のケースもあり,エレベーターも収容不能の荷物も出てきた。特に産業室用大型ケースは徳島通運のクレーン車を動員し,4階の窓から展示用ケースを吊り上げて室内へ順次搬入する苦労があった。

(6)資料の収集と展示

 3階の郷土室には,徳島城復元模型(県立工業高校建築科生の共同作業製作品),その隣りに市内東照寺の本尊を安置,石棺を置いた。ケース内に銅鐸,鎧兜,海部刀,勾玉,金環,古銭,天狗久の人形の首,江戸時代の徳島城山図などを展示した。これ等は館所蔵品ではなく,すべて有志の方々の特別出品ばかりであった。4階の美術室には県出身の美術家の油絵,彫塑などを展示した。同じ4階の産業室には,県内各工場・事業所の製品とその製造工程,水産高校生の漁網の種類漁法,農業高校生らによる山林パノラマと材木標本等が展示ケースに収められていた。
 科学室には四国電力の火力および水力発電所模型,電々公社(現NTT)出品の電話の交換機,松下電器の音楽演奏の音の強弱,音色の変化を色光の強弱明滅による表現装置の出品,テレビ受像機,冷蔵個,洗濯機などの出品は,すべてプラスチック張りとして内部が透視できるものを依頼した。電気の基礎原理を示す実験装置の出品もあった。
 5階の生物地学室には児童生徒,一般有志の採集収集された植物・蝶・貝類・化石等の寄贈品がかなりあった。上那賀町の橋本陰歳氏からも化石標本の寄贈があった。日和佐大浜海岸に上陸してくるアカウミガメ(天然記念物指定)を県の許可を受け,日和佐中学校教諭岡本剛氏に依頼して剥製と卵の液浸標本を展示した。その後,沖で網にかかった南方系のアオウミガメ・オサガメ等も展示できた。小動物,植物のさく葉を阿部近一氏の寄贈に与った。

(7)館名の決定

 昭和34年11月開館も近づくにつれ,期成同盟会の代表の方々に参集を願い新館名についての御意見をお願いした。垣本主査は次の要望を発表した。図書館には県立がついている。同じ社会教育課の廨であるから新博物館名も県立博物館を希望する旨主張した。各委員の意見まちまちであったが,ある委員は寄付金によって建築されたから県立は不要で徳島県博物館とするように発表された。結局,県立ではなく徳島県博物館と決定された。

 

開館

(1)館員の発令

 昭和34年12月10日付で県博物館員の辞令が出た。初代館長は仁科義之県教育長が兼務発令となり,垣本は次長に補すとの辞令を受けた。12月9日の夜は展示物の補充,展示ケースの移動などで夜中になっても収まらず,10日の午前4時まで忙しく立ち働く状態であった。一たん家に帰り,しばらく睡眠の後,服装を整え午前8時に館へ出勤した。開館式の式次第,受付け,誘導,接待などで多忙であった。

(2)開館式

 昭和34年12月10日午前10時,来賓として文部省から文相代理近藤唯一文部社会教育官,日米文化センター(松山)館長ドナルド・E・オルブライト氏,原菊太郎県知事,内藤茂右衛門県議会議長,竹原英太郎県教育委員長,豊田市長,各市町村長,柏原商工会議所会頭,小学生・中学生・高校生代表,その他多額寄付者森下長一氏ほか19人,39団体代表も招かれていた。感謝状贈呈者には,清水建設・東畑建設・日立製作所の代表者が招かれていた。式は,次第順序通り挙行され,午前中に無事に終了した。式後は館内展示物を見学された。短時日によく集められたとか,科学室などは商品陣列所の観があるとの批判を述べられる方もあった。県は,展示物に対する予算は計上してなくて,各会社・有志の特別出品が多く無料奉仕による資料が多いのは無理からぬことと考えられた。

 

開館後の3年(昭和35年〜37年)

(1)寄付者に対するお礼回り

 建築費の寄贈者の方々に対する感謝状を各地に出張して配布に館員手分けして走り回った。昭和35年1月26日から29日の間,垣本次長と富永主事とが神奈川県三浦三崎の漁業会社代表者に対し感謝状を贈呈した。深川木場の材木商に対しても同様感謝状を贈呈した。他の館員は,北九州市へ阪神地区へ出張して同じくお礼回りに出張した。

(2)盗難事件

 昭和35年3月10日頃,徳島市内の三谷時計店(貴金属商)主から館へ電話あり,今若者が金環(出土品)を売却に来ている。館の方の盗難品ではないかとの問合せがあった。早速,郷土室の出土品の展示ケースを調べると金環2個が紛失していた。ケースには錠が付いて異状なし。ケースの上部を持ち上げると,下の部分との間に隙間が開いて手が入るようである。ケースの構造に欠陥があったためである。飯田郷土室主事が三谷時計店に至り金環を見せてもらった。金箔が少しめくられていた。確かに館に展示してあったものに相違なかった。無事に館へ戻って何より幸いであった。早速,金環の所有者の徳島大学教授沖野舜二氏と県教委指導課の秋山泰氏宅を訪問し,金環箔部分の変形をお詫びした。展示ケースには,補強用の金具が取り付けられた。

(3)南方の貝標本

 鳴門市の森川義雄氏から,南洋で採取した貝の標本の寄贈を申し出られた。森川氏は外国船の機関長で,度々南洋へ往復され貝の収集に趣味があられた。私の在任した鳴門一中時代のPTA会員でもあった。私が県博物館勤務になったのを聞かれ,採取された南方系の貝類標本を資料に加えるよう申し出られ,館側も喜んでこれを受領した。

(4)大うなぎの標本つくり

 昭和35年9月15日,海部郡海部町の青年団から連絡あり,母川の大うなぎが生捕りになったから博物館へ寄贈するとの話であった。これから運搬するとの話により,館としても徳島大学解剖学教室の大黒成夫数授にお願いして待機していた。大うなぎが到着したので屋上で解剖,内臓を除去しあとにもめんを詰めて縫合された。医学部のフォルマリン用タンク内で固定する必要があるので,すぐ徳島大学医学部へ運ばれた。約1か月後館へ持ち帰った。展示用のケースは館で工夫したガラス容器に,ビニール袋に長く納めフォルマリンを入れて収容した。これによると,ガラスの弯曲による実物より大きく見えることなく,自然のままに見ることができた。

(5)埴輪の出土

 昭和37年2月26日,小松島市田浦町古墳から埴輪が出土したとの連絡が入り,早速飯田郷土室主事が現地を視察した。ところが,発掘を手伝った者が埴輪の持ち出しを計った。早速警察の応援を得て,小松島港にて見張りを続け遂に不心得者を逮捕し,未然に県外流出を防止できた。出土した埴輪は人物はにわ1,盾2,朝顔型円筒1で2月28日博物館へ搬入され,秋山指導課課長補佐らによって計測された。

(6)科学室資料の作製

 昭和37年初め,科学室の吉岡主事(浜元技師の後任)の発意により自動車の切断模型(実物)を作製することになり,トヨタ自動車工場に申し入れ許可を得たので3か月にわたり工場に日参して,実物を切断し内部やエンジンルームを中央から切り取って内部が見られるよう工夫がなされた。完成品を4階科学室に搬入するのに苦心を重ね分解搬入が試みられた。無事搬入組立てが終了し児童生徒に喜ばれた。
 次に鉄道模型の製作を3人の先生方に依頼した。荒井武男教諭,宮田晉教諭と館の富永敏衛学芸主事の3人が電車模型・レールの敷設・パノラマの製作など苦心の末,立派な動く電車模型が完成した。昭和37年10月に運転可能になり,小・中・高・一般の方々の興味をそそった。

(7)イル・ド・フランス号の装飾品の取付け

 岡田勢一氏よりの寄贈にかかる美術品のうち裸婦石膏像は,板東文夫徳島大学教授と学生らによって修復され,5階集会室の後方壁面に固定された。シャンデリアは,小会議室中央天井に吊り下げられた。油絵2点は館長室の壁面を飾り,レターデスクは廊下に置かれて自由に使用できるようにし,博物館の美化に大いに貢献した。

(8)博物館長発令

 兼任仁科館長のもとで3年間次長として勤務した。昭和37年5月1日付で垣本に対し博物館長(2代)に補すとの辞令を受領した。次長が館長になっても給与面には何も変化がなかった。

(9)寄付金の残りと学術奨励

 建設基金のうち5千万円は館建設費に充てられ,あとに約6百万円の残りがあった。これを活用するため,昭和37年に徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会(大久保九平委員長ほか大学教授ら合計10人)を設置し,銀行利息を研究家の研究補助に当てることになった。毎年数名の郷土研究,動植物の採集,電気製品の製作等のため希望者に利息を分けて補助に割り当てられた。これらが積み重ねられて館資料の充実に大いに役立てられた。

 

おわりに

 博物館では,資料展示品を観覧してもらうだけでなく,種々の行事を催して館活動を周知してもらうことが肝要である。博美展(絵画・書・彫塑・写真),野外採集と標本の作り方の自習室,夏休み採集物の名をつける会(初め同定会と呼んでいた),以上の行事は一般,小・中学生らの学習意欲を盛んにした。館外行事として移動天文教室を計画し,昭和38年度予算に天体望遠鏡購入を要求し査定許可された。夜間,県下小・中学校を巡回し天体観望,星座の実地指導する計画であった。昭和38年夏から移動天文教室が始まった。講師として垣本と喜馬邦雄教論とが交替で指導に回った。
 昭和38年4月1日付で県立教育研究所長に転出した。館を離れた後も移動天文教室の講師を毎夏つとめ,学術奨励基金運用委員会の委員として館に出入り出来た。博物館開設の苦労は大変であったが,今ではかえって楽しい思い出となっている。有名な学者・芸術家・実業家に接し,その影響が大きく視野が広くなった観がある。

 


 

思 い 出

 

豊  岡  磊  造    

 先日,東明館長から『徳島県博物館三十年史』の原稿執筆の依頼を受けた。私が館長を拝命したのは昭和49年で,開館以来15周年日の記念すべき年にあたっていた。以後3年間お世話になり,皆様にいろいろご迷惑をおかけしたことと思う。着任して間もなく,四国博物館協議会が日和佐町のうみがめ荘で開催され,県内の博物館にご協力をお願いした。昭和50年度と51年度の2か年にわたり,文部省の社会教育局より,「博物館活動振興方策」の研究を委嘱された。全国的には本館の外に,東海地区からは神奈川県立博物館,近畿地区からは伊丹市立博物館,中国地区からは鳥取県立博物館の3館が研究を委嘱された。本館は四国地区の代表といったところであった。その趣旨は,「博物館活動の振興を図るため,博物館における効果的な展示のあり方を調査研究する。」ということで,4館共通であった。委嘱を受けると同時に研究委員会を組織した。委員長は今は亡き徳島大学名誉教授の高島律三先生で,委員には館外の専門家9名と館員5名の計14名があたった。
 当時,総合博物館は四国には徳島県博物館しかなかった。然し文部省の意図する博物館は,当時でも建物の延べ面積6.000F,学芸員17名という大規様なもので,面積にして本館の3倍,学芸員の人数に至っては4倍以上のものだった。鳥取県立博物館は本部省の設置基準に依るもので大きく,神奈川県立博物館は元の正金銀行の建物を館としたもので,建物そのものが重要文化財となっていて,恐らく国立博物館を除けば全国一であろう。本館が文部省から研究指定を受けた理由は,四国唯一の総合博物館であり,当時の国立科学博物館発行の「自然科学と博物館」にも「学校教育と密着した徳島県博物館」として紹介されたように,教育活動を盛んに行ってきた為ではないかと思われる。
 昭和50年度には「教育活動を反映させた展示効果」と題し,文部省に報告書を提出した。これは現在までに行ってきた教育活動にメスを加え,これを調査分析してどうすることが効果的であったかを追跡してみたものである。昭和51年度には,研究委員を増員して委員長外20名にした。これは,前年度のデーターを拠り所として,各部屋毎に研究委員を委嘱したため増員したものである。そして「地方博物館の展示のあり方」と題して文部省に報告書を提出した。
 神奈川県立博物館を訪問した時,館長さんは愛媛県出身の方だとのことであったが,「神奈川県には鎌倉はありますが,横浜は草原に港ができたものですから何もありません。本物は東京へ行けば見られるので,展示品は彫刻でも仏画でも殆どが模造品です。模造品でも一品100万円はかかります。」との事だった。昨年,会があって横浜へ行ったが,その時貰った「神奈川県の博物館」という資料によれば,横浜には24館,県下では76館もの博物館がある。当時でも,館長さんは東京都に次いで博物館の多い所だと言っておられた。模造品を展示すると言うのは如何にも横浜らしく,これも地方博物館のあり方かなあと思った。
 横須賀市立博物飽の1階にはナウマン象の骨格模型が展示してあったので,「いくら位かかりましたか。」と聞いたところ,「700万円位かかるとのことでしたが国立科学博物館が作る時,一緒に作って貰ったので費用は半額で済みました。」との事であった。またここには,戦前には日本に3部しかないと言われていた動物学文献集のZoological record(ズーロジカル・レコード)があったのには驚いた。アメリカから貰ったとのことだった。ナウマン象化石は,小豆島と明石を結ぶ地層に多く,徳島県博物館にも鳴門海峡から出た牙や歯の化石が展示されているが,是非全体の骨格模型が欲しいなあと思った。
 在職中は資料の保存と整理に気を遣った。収蔵庫が狭く,空調設備もない状態であったので県当局にお願いしたところ,今は予算がないから半分は館で負担してくれとのことで,210万余円の予算で生物,歴史・考古の収蔵庫にこれが完成した。転勤後全館が空調になったと聞いたが,も少し待てばよかったと思った。然しこれも来年11月には,文化の森総合公園において装いも新たに新博物館がオープンするとのことなので,空調設備もより完璧なものとなることと思う。資料の整理もまた博物館の大きな仕事である。特に自然史部門においては,これをやらなければ意味がない。
 しかしながら,動植物の種の同定ということは,到底一人のみの力で為し得るものではない。幸いにして担当職員を取り巻く同好の方々が沢山居られ,助言をいただいてこの方の仕事も着々と進めてきた。
 四国博物館協議会は,毎年各県持ち回りで開かれた。その会長は任期は2年ということになっていたのに,私の任期が終わった後,もう一年やってくれとのことで3年間勤めた。四国の会長は,全国の評議員を兼ねることになっていた。四国からは,もう一人栗林公園動物園長の香川美民氏が評議員になっていた。博物館の全国組織として社団法人日本博物館協会があり,その会長は徳川宗敬氏であった。専務理事に毛利正夫氏が居られ,文部省への陳情や四国の会の時に出席されるなど,よく面倒をみてくれた。香川氏と私はよく上京した。香川氏が協会から表彰されるとき,私がその推薦状を書いたことを今思い出す。会長の徳川宗敬氏も先日亡くなられたことを新聞で拝見した。香川氏もその前に亡くなられ,息子さんが栗林公園動物園長を継いでおられると聞いている。私も年をとったなとつくづく思う。徳島県博物館は当初,教職員や児童生徒の寄付で発足したと聞いている。館の屋上には寄付者名を刻みこんだ銅板がはめ込まれている。それだけに教育活動に熱心だったということであろう。
 今度,文化の森総合公園にオープンする新博物館は恐らく文部省の設置基準に沿ったものだと思うので,大きなものになるであろう。現在の博物館は発展的解消となると思うが,資料は移転されることであろう。新博物館の今後の発展を心からお祈り申し上げると共に,『徳島県博物館三十年史』を計画された各位に心からお礼を申し上げて筆を擱く。

 


 

徳島県博物館在職中の回顧

 

竹  原  保 次 郎    

 昭和52年・53年の2か年にわたって,県博物館館長の重責を担わしていただいた次第であるが,それまで外部から何となく見ていた博物館にさて直接の責任者として入ってみると,まず異様に感じたのは,雑居ビルのような寄合所帯であることであった。1階は県の物産関係の施設と市のロープウェイの乗場があり,2階もまた同じような形で,実質3階から上5階までが博物館の施設として使用されていたし,現状もまた然りである。在職中県外の博物館を見学する機会に恵まれたが,どこへ行ってもこのような博物館は一向に見当らず,些か寒々した想いで帰ってきたことを記憶している。徳島という所が,いかに文化的に立ちおくれているかを今更ながら痛感した次第であった。しかも本県の博物館は人文,自然科学の広い範囲にわたって資料を展示しており,一層の手狭さを感じさせ,折角のよい資料も十分な展示のスペースを得られない有様であった。
 さて,昭和53年の10月20日から29日にかけて『名勝 鳴門図絵展』を行ったが,名勝鳴門をテーマにした書画・工芸品約70点が展示され,一般の関心を大いに高めたわけで,これには江戸時代以降明治から現代にかけての著名な作家の作品を展示したのであった。この時の作品集めの折,偶々当時の知事官舎に池田遙邨氏の鳴門の渦潮を描いた絵があるということで,行政当局と交渉して借りうけることになった。当時は武市知事の時代であったが,知事さんも快く諒承してくれ借出しに官舎にいった。問題の絵は応接室におかれていた大型の衝立形式のものであった。ところが管理不十分のためか,1,2か所破れたところがあり,貴重な文化財も傷物の状態であった。兎に角搬送して博物館まで持ち帰った。さて会期も無事終了し,この絵をお借りしたお礼のため,県の知事室を訪れ,お礼の挨拶旁々,貴重な文化財に傷がついていることを申し上げたところ,知事さんは,その絵は博物館へ寄贈するから,以後そちらで保管するようにとの事で,以来この絵は博物館所蔵のものとなったわけである。
 さて,知事室へお礼に行った際,文化財の管理の事から,徳島の文化のたちおくれの問題について,いろいろと話を申し上げ,知事さんの業績として,将来県民から感謝されるのは,土木建築関係の仕事もさることながら,文化的な事業の如何に大事であるかについて懇談を重ねたのであった。
 時は移り,いよいよ平成2年の秋には,待望の文化の森の完成,博物館,美術館,図書館等それぞれ独立の建物が脚光を浴びることになる。独立の建物としての博物館が漸く日の目を見る事になるわけであるが,この「文化の森」の構想は武市前知事の発想によるものであり,この名称そのものも,イメージにぴったりというべきであろう。
 文化の森は環境的には申し分なく,豊かな緑の周辺に恵まれ,園瀬川の清流を眼下にして,市街地の喧騒から離れた立派な場所といえよう。博物館はもとょり,新設される美術館等においても,心静かに文化芸術を鑑賞できる恰好の適地である。このように文化的施設を1か所に集めて,一大文化センター的な構想としたことは,文化的後進県である本県の大ヒットというべきであろう。今後この諸施設が大いに活用され,県民の文化への関心の高まりと,本県文化水準の飛躍向上を切に願うとともに,博物館の今後の活躍を刮目して期待する一人である。

 


 

二足のわらじ

 

石  堂  廣  光    

 生涯教育の理論化,体系化とその具体化が,教育改革の基本的な考え方として注目を浴びるころに,私は県教委社会教育課長に就任した。そして,生涯教育の主要な一翼をになう社会教育の見直しが行政課題の一つとして,国・県・市町村・コミュニティの役割分担とネットワークや広域活動,地域活動や施設活動の事業展開プログラムが問われるときであった。
 この課題解決の一環でもある県立社会教育施設の整備充実は,県民の文化需要の上からも必要に迫られ,老朽化し,狭隘で現代的要求にほど遠い県立図書館,博物館の移転新築を目途として,数年前に県教委事務局に設けられていた「県立図書館等移転新築準備調査協議会」の主管課の責任者として,関係諸氏の協力を得て,より前進へと積極的にも取り組んだときでもあった。
 3か年勤めあげたので,従来の慣例からみても,憧れの高校現場復帰が単なる噂の域を脱しかけた昭和54年早春,私は時の教育長に呼ばれたのである。そこで教育長から「君が社教課長時代を通して取り組んできた県立図書館の移転新築は本県文化振興の急務であり,用地の目途もほぼ確実でもあるので,君が館長に就任すれば,諸般の事情分析から,4年以内に実現が予想される。そうすれば,定年までの残り3か年は必ず徳商校長が約束できる。」,また「最近もちあがってきた第三セクター方式による美術館建設問題についても,県・市・民間機関の徳島新聞社と基本構想を一層煮つめる必要がある。美術館となると,いつも君がいうように広義の博物館に含まれるので,人事定数の課題ともかねあい,博物館長を兼務し,県教委代表として美術館建設準備研究委員会に顔を出してほしい。」との要請があった。「器用貧乏」というたとえ方で,日頃指導を受けていた某先輩校長は,この要請に批判的で,私に熟慮を求めた。しかし,教育長の要請もだしがたく,かつ私なりの県政の将来展望から,内諾の意を申し述べ,現場転出をすすめられた当時の知事にもこの意向を申しあげたのである。
 その年の4月1日に,教育長から,私は2枚の辞令書を拝受した。1枚目には『徳島県公立図書館長に任命する。徳島県立図書館長に補する』とあり,2枚目には『徳島県博物館長に兼ねて任命する』とあった。私は,こうして,異例の「二足のわらじ」をはくことになったのである。
 およそ,「二足のわらじ」というのは,安定した生活費を得る「本業」のほかに,趣味・特技をいかし,それほど報酬を期待しない「余業」をもつ場合に用いられたり,ばくち打ちが捕吏を兼ねた場合などで,公務員としてはあまり感心しないものである。文化行政が全国的に高く盛りあがり,地方の文化が流行語となる文化需要の増大の中で,数少ない県立社会教育施設の二つの廨長を兼務するという人事には,マスコミは勿論,県民一般からも賛否両論が顕在的にも潜在的にもある世論の中での「二足のわらじ」の出発であった。
 図書館新築の特命をもつ館長として,大方の図書館人からは期待をもって受け入れられたが,「県立図書館70年史」の中に「ただし,石堂館長は博物館長兼務のため勤務日は,毎週月,水,木,土」と,ただし書き記載が示すように,週のうち「火,金」は博物館勤務であった。しかし,博物館は日曜開館であるので,可能な限り日曜日も登館することにつとめ,私の「二足のわらじ」は休みなしに2年間,私の体にしばりつけられたのである。
 私の立場は,いずれも「余業」とせず,ともに「本業」とするために(ただし,博物館では給料を支給されない館長であった),二足のわらじの履き方に次の三つの点に留意することを自らに約束づけたのである。その第一は,二足ともしっかりと履くことであり,それぞれの職務をおろそかにしないということである。いいかえれば,在任期間をそれぞれの館長として全うする印象を県民に与えることである。その第二は,工夫して時間を作ることである。万人に等しく与えられた1日24時間を,私は1日30時間,40時間に匹敵する過ごし方をすることにつとめようと覚悟した。第三は,頭の切り換えをすることである。社会教育施設としては類似であっても,ヒト,モノ,カネそれぞれに異なる有機的・独自的な構造体系をもつものであれば,関係者特に来館者に,一足のわらじを履く館長として認められるように,私なりの「変身の技」を身につけるよう心掛けた。さて,この三つの覚悟は,どのように理解されたのか,評価は後世にゆだねざるを得ない。
 昭和54年で置県百年を迎えるにあたり,県を中心として諸行事,諸記念事業が展開されたが,その一つに近代美術館建設問題があり,武市知事,山本市長,森田徳島新聞社長の三者賛同・協力により,6月22日に第1回の研究委員会(県側から鳥越生活環境副部長,石堂博物館長,市側から古金市民部長,宮崎同副部長,天羽教育次長,徳島新聞社側から井端編集局長,片山文化部長)がもたれ,美術館の性格,管理,運営を研究課題とし,データの収集,先進美術館の研究視察等を計画し,5回にわたる研究委員会がもたれた。この問題は,博物館の基本的性格とも関連するので博物館職員ともしばしば討議を重ねた。ところが,翌55年1月に,知事から「文化の森構想」が発表され,前述の研究委員会の課題は発展的に解消した。しかし,この館内討議がその後の文化の森における「県立博物館基本構想」につながったと理解している。55年7月に設置された「文化の森懇話会」に関連して置かれた「文化行政研究会」には「二足のわらじ」の立場から,望ましい“社会教育施設の在り方”について意見を述べたものである。博物館に関する私の夢は『徳島の文化』第2号に「徳島県新博物館像(私案)」として投稿した。
 開館20周年記念特別展「徳島の先覚者展」には,資料収集に関東・関西の関係者を出品協力依頼のため訪れた想い出や,ときの総務部長小島氏に再三にわたり来館を請い「特別展収録」の予算化や,全館冷房,窓枠のアルミサッシ化工事などの想い出はつきない。
 思えば,昭和32年9月の定例県議会で,戦時第1次ベビーブームの児童を小学校に擁し,高校進学率の向上と高校入学難のかねあいから,高校新設を急務とし,浄財によるとはいえ不急の博物館など思いもよらぬとつめよる「悔いを千載に残す」追求と,勤労を愛好させ,むだを省く認識を育てる小中高校生からの浄財は「誇りを千載に残す」と推進する当時の教育長の答弁。難産の末に発足した徳島県博物館は,30年の履歴書を書いて,間もなく新しい館に引きつがれようとしている。私は短い「二足のわらじ」を履いた館長にすぎないが,「誇りあふれる」館としての評価を強く主張したい。

 


 

回  想

 

細  井  宏  二    

 徳島県博物館もいよいよ平成2年度には「文化の森」に移転,新館がオープンすることになった。現在の館は,立地条件に恵まれているといわれながらも駐車場がなく,加えて他施設との共同使用という手ぜまさをかこってきただけに,人々の新館に向けての期待と喜びはひとしおのものがあると推察される。また反面,現在の館は,県下の教職員,児童生徒の浄財によって建設された由緒のある館であり,過去30年にわたって広く県民に親しまれてきただけに,愛惜の情も切なるものがある。
 私が博物館に職を奉じたのは,昭和56年度・57年度の2年間という短い期間であったが,新館建設へ向けての第一歩が踏み出された重大な時期でもあった。昭和55年,県当局から「文化の森」構想が発表され,八万町向寺山が候補地としてあげられると,県内各層の人々から賛否の両論が出された。博物館,美術館,図書館の三館集中構想の中で,特に移転反対論が強かったのが図書館であった。図書館利用の日常性から考えて,向寺山はなんとしても市の中心部から離れすぎ,交通が不便である。老人,子どもなどの利用者は激減するのではないかというのである。これに対して,県立図書館は,地域住民に密着した第一線図書館ではない。住民の直接利用も大切だが,市町村図書館を資料面,レファレンス面でバックアップする第二線的図書館としての性格を持つ。多少遠くてもやむを得ないとする意見もあった。更にこれに対して,市町村図書館の未整備の状況の中で,県立図書館二線論を持ち出すのは無謀であるなど,激しい議論の応酬が続いたことは記憶に新しい。当時,私は博物館と図書館を兼務するという立場にあったため,賛否両論の対立する中で苦慮する日々が続いた。
 しかし私は,博物館に関しては,最初から移転やむなしという考えを持っていた。現在の館は,設立当初の事情からして,その資料構成がどうしても学枚教育に重点が置かれ,広く一般社会人の利用にはややもの足りない点があること。交通の便が良いとは言うものの駐車場が全くなく,資料の搬入,搬出にさえ不便をきたしていること。県の物産陳列所,ロープウェイの発着場といった他の施設と建物が共同使用されているため,将来とも現地での増築,改築といった見込みは全くなく,特に収蔵庫の拡張が望めないことが致命的であった。現在の資料,施設では,年間予算の配当も乏しく,これ以上の館の発展は望めないと考えられたのである。博物館の魅力の一つは,常設展もさることながらやはり特別展にある。こうした「催し物」の折に県下から広く入館者を集めるには,車社会の現在では駐車場は不可欠であり,水と緑に恵まれた向寺山なら多少遠くても入館者は増加するのではなかろうか。また重文級の民家の保存移転,植物園の設置なども併せて実現すれば,児童生徒の遠足を兼ねた見学等も期待できると考えられたのである。候補地向寺山へも何度も足を運んだが,思った程の広さがなかったのは残念であったが,館内の人達の空気も移転賛成に固まり,図書館にさきがけて新館への構想が議論される毎日となった。
 57年度に入ると,いよいよ「博物館基本構想検討委員会」の発足に向けて,基本構想にもりこむ博物館側の原案づくり,委員にお願いする方の人選等が,県総務部に設置された「文化の森準備室」と県教育委員会との協議のもとに開始された。館内外の会議,委員依頼のための出張,他館の視察研究等々あわただしい日々が続いた。新館構想の中で,自然史系,人文系を問わず,「徳島県の博物館」としての地方の特色をいかに生かしていくか,現有の理工系の資料を移転して理工館としての性格も持たせるのか,新設される美術館との資料分担はどうするのか,資料収集のための委員会組織とその委員の人選はどうするのか,学芸員の増員は可能なのか,伝統ある館行事「博美展」はどうするのか,等々最終的には「検討委員」の方々の結論をまつにしても,館としての立場をまとめておかなければならな問題が山積していた。幸い博物館は優秀な職員に恵まれており,私は館員の意見を集約するだけで,順調に業務を推進することができたのは誠に幸せであった。
 こうして58年3月末には,三木知事以下県当局の方々の出席のもと,建設センターにおいて第1回の「博物館基本構想検討委員会」が開催された。当日は検討委員による,現有館の視察と併せて現地向寺山の視察も行われ,いよいよ新館に向けてのスタートが切られた。私は,この時既に高等学校への転出の内示を受けていたので,心中複雑な思いであったが,なんとか無事に新館構想の第一歩を踏み出すことができたという満足感と,私を支援してくださった館員の方々への感謝の気持ちで胸がいっばいであったことを昨日のように記憶している。新館が,広く県民に親しまれ愛される博物館として,また目で見,耳で聴いて理解できる知識の宝庫として,今後ますます発展されることを心から祈りたい。

 


雑  感

 

近  藤  正  明    

 博物館に全く門外漢であった私が勤務したのは,文化の森の博物館基本構想検討委員会が発足した翌年の昭和58年から61年までの3年間であった。この間の仕事は,基本構想検討委員会,及びこれに続く資料収集展示委員会など主として新館に対応するものであった。本誌発刊に際し依頼されるままに,駄筆をろうしたい。
 就任後まもなく,博物館の歴史と基本構想検討委員会発足の経過を調査する過程で,ある大きな疑問を感じた。博物館の科学技術部門がこの部門の過去の利用者の実態に目を向けることなく,更にこの分野を今後どうするかについての見通しも明らかにしないまま,新館構想から切り捨てられていたことである。古い伝統の上に新しい歴史を創造する者としては,一考の余地があったのではなかろうか。
 スポーツの永続的な振興を図るには,そのスポーツ人口の底辺を拡大することが原則であることは論をまたない。県の経済的活力を維持発展する基盤は,道路・港湾・空港等の整備充実にとどまらず,科学分野に関し興味と関心を持つ県民の底辺を拡大することが緊要である。この分野に関する県民各層の知的欲求に対し,生涯学習の観点からしても,どのように対処するつもりなのであろうか。科学技術の将来を展望するため,科学の変遷を明らかにすることも文化にとって必要であろう。
 博物館の館長及び次長に,館の運営管理に精通し創造力に富む学芸員が登用されるというシステムが確立していないのも奇異に感じたことである。学校,各種試験場,病院等のトップはその道のベテランが登用されてこそ,その機能を果たすことが出来るものである。博物館が専門的かつ研究的機関であるとの認識が欠如していたのが原因であろう。
 徳島県博物館が予算,人事,施設設備等恵まれない環境のもと,永年にわたり数々の創意あふれる活動を行い,多大の成果をあげ,その幕を降ろすことができるのは,学芸員の真摯な努力の積み重ねと,献身的な協力を永年にわたり惜しみなく与えて下さった有志各位のたまものである。まことに頭の下がる思いである。
 文化の森の各施設の管理運営については,県民各層の関心の的である。各施設を一区画に集中したことは,全国的にみて大きな特色である。各館が相互を意識し,切磋琢磨の中で各館独自の特色ある活動を展開することが期待される。しかし,各機関が縦割りでなく有機的に結合した総合活動を展開してこそ,この立地上の特色が全国的に注目を浴びることであろう。大胆な発想を期待したいものである。
 観光客誘致は,県民の大きな夢である。文化の森もその期待から逃れることは許されない。各館が地方館としての特色を発揮すれば,おのずからその期待にこたえられるとの消極的意見もある。一応の説得力はあるものの,観光意識の有無によって,その成果は大きく左右されるであろう。柔軟な発想を期待したい。
 地方館が地方館としての県民の意向を把握し,県内有志の恊力を得て,その特色を発揮するためには県内の優れた人材を学芸員として,館長として迎え入れることが,また養成することが望まれる。私が在任中,文化の森関係で2名の優れた学芸員が県外から採用されているが,果たして県人には将来幹部として活躍が期待される適任者はいないのか,あるいは希望する人がいないのだろか。博物館にしろ,美術館にしても,学芸員の数は限られている。即戦力として県外に依頼せざるを得ない事情はあるにせよ,将来を展望した人事もあってよいのではないだろうか。
 最後に,忘れることのできない思い出を一つ。
 前館長の細井先生の御努力で多額の資料購入予算が得られていたが,その執行でのことである。購入対象資料は徳島市で歯科医をされている豊田先生が一生涯をかけて研究された,二百数十点にのぼる陶工庸八の焼物及び参考資料で,県にとっては掛け替えのないまとまりのある第一級資料である。過去に例のない多数の予算ということで,大きな関心を集めた。
 残念なことに予算の執行,資料の収集に当たって,ある種の妨害めいた動きもあり,苦労したこともあったが,文化遺産に対する情熱と理解によって解決することができた。豊田先生の広いお心と永年にわたる御協力に対し,心から尊敬と感謝を申し上げる次第である。

 


 

博物館始末記

 

中  西  忠  司      

 徳島市の目抜き通り,新町橋に立って前方を見ると,眉山の真下,ワシントン椰子の並木ごしに博物館の建物が見える。ビルの中から湧き上るように,ロープウェーのゴンドラが,つぎつぎと山頂へ上ってゆく。わりと目につきやすい筈なのに,日頃の無関心さか,博物館はどこにあるのか,今もって問い合わせが絶えない。また,ロープウェーの客が間違って博物館に入ったり,博物館に入ったつもりが下の物産観光事務所のみやげもの売場でまごついたりしている。そういう私も,かつてはその一人であった。
 建設当時は,付近に高いビルも少なく,ひときわ目をひく建物であった。以来30年間,徳島の芸能・文化の拠点としてその使命を果たしてきた。しかし,今となって,建物の狭小,老朽化,雑居ビルの管理運営,展示資料の質・量等々,多くの問題がおきてきた。折しも,置県百年記念の大プロジェクトとして「文化の森総合公園」の構想が発表され,新博物館建設が打ち出された。多くの英知を集め,練りに練った昭和59年の基本構想から,基本設計,実施設計,そして,昭和62年,徳島市八万町向寺山一帯に着工の槌音がひびき,今日その偉容を現している。
 このような重大な時期にあたる昭和61年4月から平成元年3月までの3年間,私は博物館長として勤務を命ぜられた。これまでの学校現場で,生きのいい高校生相手の,怒涛の荒海のような活気がふっと消えた。まるで,深海底に沈んだような静謐さにとまどいを感じた。しかし,そんなとまどいも1か月程で吹っ飛んでしまった。春から夏にかけては博物館のもっとも多忙な時期である。博美展に始まって,夏休み中に焦点をしぼった各種事業,真夏の3週間の長丁場の若杉山遺跡発掘調査等々…。これと並行して,文化の森閑係の打ち合わせや会合が多くなってきた。
 新館オープンに向けての作業が次第に増してきた。博物館学芸員の文化の森事務局併任人事がなされた。建築,展示担当者との打ち合わせ。日本の博物館としては,はじめての大型コンピューター導入によるデーターベース作成。展示室のストーリーに応じた資料の購入確保。そして,何よりも必要なのは,文化の森建設事務局(知事部局)と博物館(教育委員会)との連帯と緊密な意思疎通である。両者いすかの嘴と,くいちがうことがしばしばあった。行政の部局が違うと,連携がなかなかむつかしい。
 私は,館運営の今後の方針をはっきり打ち出した。すなわち,「博物館は教育委員会の下にあり,その意味においても,現館活動,行事をなおざりにできない。しかし,4年後の到達点が決定されている。文化の森総合公園の新博物館建設。これは県の決めた大目標である。この大前提のために力を集中してもらいたい」と。私も極力,新館建設関連の会合に出席して理解と知識を得ようとした。だが,コンピューター関係の会合では,老硬化した私の頭脳では,専門知識の理解には限度があった。
 1年はまたたくまに過ぎた。私も館員も,新館オープンまで行く手の空に重苦しい雲が見えるものの,まだまだ4年先といった気持があった。そうはいうものの,学芸員の方々は,平常の館活動のかたわら,少しずつ自分の部門の資料整理作業に手をつけていった。だが,このままではとても間に合わない。何としても専門学芸員の増員と,整理作業スペースの確保が焦眉の急であった。
 4万点にものぼる収蔵資料の整理(本来なら,博物館である以上当然できていなければならないものである),これを終えなければ新館への引き渡しも,コンピューターのデーターベースに組み込むこともできない。学芸員の増員も今たちまち,1人でも2人でも欲しい。だが,行政では定員増はそう簡単にゆかない。新博物館の定員は,当然,かなりの数となる。現に,文化の森事務局でも,数人採用している。今後,オープンまで漸次募集,採用予定であるが,今の作業には間に合わない。
 自然系1人の学芸員が,岩石・植物・動物と,その動物も,昆虫・魚貝類・哺乳類・鳥類……と,専門分野が多岐である。人文系でも,1人が古文書・武具・金工・陶磁器・漆器・絵画……と,一手に引き受けねばならない。それぞれ能力は持っているものの,時間的に不可能である。現館の人数は,館運営のための最低限の定員である。
 資料整理のための,作業スペースにも頭が痛い。狭い博物館に,所狭しと資料が置かれている。30年も経てば,収蔵資料も増加している。大は唐箕などの民俗資料から,小は虫一匹にいたるまで大切に保管している。いずれも貴重な資料である。ただでさえ狭い収蔵庫からあふれだし,映写室,廊下,階段,果ては,ホールの壇上にまで積みあげている現状である。安全,的確に作業をすすめるには現博物館を休館して,一斉に作業に当たることである。平成元年4月からでも実施したい。
 綿密なタイム・スケジュールを作って,その必要の理由づけを提出した。もちろん,昭和62年・63年と美術室の閉室,それにともなう博美展の展示面積の縮少等,一部の行事の手直しをしながら,従来の館活動はつづけられた。これと並行して,予算の裏づけのもと,整理作業も一部ずつ完成していった。
 2年が過ぎ,3年目を迎えた。案ずるより,産むが易し。学芸員の努力で,資料整理の目鼻もついた。整理が進むはど5階ホールは足の踏み場もなく,整理資料が積みあげられた。残るは,各室の展示物の撤去と,その整理,梱包である。それには,それぞれの展示室を当てねばならない。
 昭和63年になって,新たな展開があった。昭和62年9月県議会での知事答弁で,文化の森総合公園の諸施設の管理運営は,教育委員会が引き受けるようになった。また,63年度より新博物館に向けての作業について,自然系は文化の森建設事務局内で顧問以下4人のスタッフが受け持ち,人文系は博物館で館長以下4人のスタッフが受け持つこととなった。部局の異なる独立の機関が,新博物館建設という大前提のもとに一致協力体制がとられた。
 いよいよ,休閉館を決めねばならない。オープン1年8か月も前からの休館は,教育委員会でも難色を示した。他県の館にも例がないという。また,県民感情としても納得できない。やむをえない理由があるにしろ,それは内部の事情のこと,外に対しては理解してもらえないのではないかという。同時に新館へ向けて作業を進めている県立図書館は,オープン6か月前の閉館でいいという。図書館と博物館では,扱う内容や作業そのものが複雑多岐であって,同等には考えられないのだが。
 休館となると,県条例の改正のため議会審議が必要となる。教育長はじめ,教育委員会内関係各課との度々の説明会と,検討がなされた。休館とせず,展示室の閉室に切りかえた。展示資料については主なものをアルバムにまとめ,いつでも閲覧に供することとし,相談業務や夏休みの採集物の名をつける会,親子歴史教室などの館外で実施できる業務については,従来どおり実施するという結論に達した。入念な説明資料をもとに教育委員会の会議にかけ,総務部長,副知事,知事と説明を終え,平成元年4月以降,展示室の閉室にふみきった。
 これで,新館オープンまでの体制が整った。館員のエネルギーをすべて,移転作業に集中できる。かえって,一層の重荷が課せられたようだ。しかし,何だかいちまつの寂しさが湧いてきた。華やかな春の博美展,夏の星空に夢を集めた移動天文教室,昆虫や植物の標本をかかえて館内で夏休みに別れをつげた子供達,最後の特別展−朱の考古学−,3年間の炎暑の若杉山遺跡で若い学生,研究者の古代への情熱などが胸をうつ。
 博物館の窓に今夜も遅くまで明かりがみえる。館員の誰彼か,新館準備にがんばっている。ご苦労さま。夜の博物館前を通りながら,3月に退職した博物館の3年間のあれこれをなつかしむこと,しきりである。


徳島県博物館30年史もくじ